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									 くそったれだよ。書いていた記事が消えてしまった。ものすごくおもしろかったのに! 昨日の早朝、雪のなかを歩いていて僕は不思議な虚無を感じていました。 ぜんぜん人のいない街、遠くは雪で白く靄いていて、車もなぜだかあまり通らない。眠っているみたいなその朝……。雨とちがって、雪は音も立てないものだから。 なにか大切なものを置き忘れてきたような、そんな感じでした。僕がそこで考えていたのは、「心臓をどこかに落としてしまった」という文句。不思議な焦燥、誰か踏み潰しやしないだろうか? 僕は忘れてきた心臓をドキドキさせて、しかし身体はそのドキドキを感じないのだ、そんな虚無感。 しかし今、この虚無感にぴったり合致するよりよい喩えを見つけました。それは書いていた記事が突然消えてしまうような感覚です。本当に、ものすごくおもしろかったのに! *** fって男のおもしろいはなしがあります。『ペイントレッド記念館』『ヤスデ性脳症』でF氏・ファーブル君のモデルにしたやつです。彼は実在していて、僕の古くからの友人だ。 小学生のころ、fは車にはねられて一度死んでいた。心臓が止まったのである。しかし、それが救急車のなかでの処置で息を吹き返したものだから、中学に上がって僕と知り合うことができました。彼はすごい楽天家で、みんなから愛されていました。「どうせ一度死んでるんだから」と言って、目の前にある不幸をどんどんなぎ払ってゆくのです。テストの点とか、親や教師、そんなうっとヲしいものを次から次へとぶった切る。彼の「どうせ」は良かった。酒の肴になるような、愉快な自虐です。 その当時、僕はオカルトや神秘的なものが好きでした(今もそこそこ)。それで臨死体験というのがどういうものなのか、ときどきfと二人のときに問い詰めてみたのだけど、彼はいつも「寝てんのと同じさ」とニヤニヤするばかり。「なんてことでもないよ」と。 寝てんのと同じ、寝てんのと同じ、寝てんのと同じ……? この言葉が正しいのであれば、僕は毎晩死んでいることになる。中学生といってもまだ幼かった僕は、なにか彼の言葉が恐ろしくてしかたなく、一時期眠れずに何夜かを過ごしたものでした。眠れない夜、それは死への恐怖が影のように意識にはりついて離れず、怯え震えのおさまらない、なんとも恐ろしい夜でした。 どういうわけか多くの場合、人間は楽しかった日々よりも苦しかったり落ち込んだりしていた日々のほうを懐かしく思うものです。僕もそうでした。つい最近fと久々に会ったときも、やはり不眠の日々が頭に浮かんで、それを彼に訴えて遊びました。 「お前のせいで、俺は眠れなかったんだ」 「それは悪かった。そんな気はなかったんだが」 fとは高校も同じだった。だけど彼は精神病を患って学校を中退してしまっていて、以来会うたびに暗くてジメジメした話を聞かされたものです。 その晩、僕たちはfの家でウイスキーを飲んでいて、ずいぶん良い気持になっていました。彼の陰湿な話もそのころにはおさまっていて、僕たちはふたたび臨死体験について語り合いました。 「実際どうなんだ? 一度死んでみるというのは」 「実際そうなんだ。眠っているのとかわりないんだよ。夢のない眠りさ。Pはそれで不眠になったと言うが、僕はまた違う点から臨死体験を見て、病んでしまったんだ」 彼が言うには、「自分が死んだ」という意識はなかったから、周囲の人間が嘘を言ってるんじゃないかと疑っていたらしい。中高生なんて周囲の人間のほかには社会を知らないから、とにかく周囲の反応に敏感であるものだ。心臓が止まるなんて、経験するのは誰もが年老いてからのことなのであるし、それでfは独り、不快で奇怪な人間になってしまったような不安を抱えていたのです。 彼は語りつづけていると、しだいに目を伏せて声を弱々しくさせてゆきました。 「僕が死んだ? それなら今この現実こそ、死後の世界だろう?」 *** くそ、ウイスキーが尽きそうだ。 記事が消えて、僕はもう寝ずにここまで新たに書いたのです。疲労もひしひし感じはじめてきたし、このあたりでやめておかないとfが万が一にでも知ったばあい怒るかもしれないから、やめておきましょう。実際その夜の終わりに、僕は彼のひどい怒りに曝されたのですから。 これは〈詩〉に分類してますが、マジの事実なのでした。 PR  | 
							
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