K市へのそう長くない道のりを、男はずっといらいらしていた。一車線しかない幅の狭い道路を車で走らせていたのだが、すぐ前に大型のトラックがのろのろと、しかも蛇行して、男の運転を妨害するのである。
  この大型トラックに乗っているのは一人の女だった。30を越えて長距離ドライバーなどしているのだから、もちろん普通の女ではない。
  男はとうとうしびれを切らしてクラクションを鳴らしまくり、車間距離をつめるつめる。しかし、女のほうではむしろこれが愉快で、すぐ後ろについた、いかにも有閑階級好みの黒い外国車を見て、これをとことん妨害してやろうと思うのであった。
  女には男運がなかったし、自分の境遇を呪って、もはやなにかに八つ当たりをして楽しむくらいしかなかったのである。そして、とうとう男がクラクションを鳴らしっぱなしにしたところで、女を引き止めていたなにかがプツンときれた。
  女は思い切りアクセルを踏み込み、速度をぐんぐんあげる。男の車が先を急ごうとすぐ後にぴったりついているのを確認し、速度が80キロまでになると、グッとブレーキを踏んだ!
 案の定、衝突である。男の車はそのままトラックにぶつかり、男は衝撃で死んだ。そして、この衝突が予想外に大きかったのと、急ブレーキの揺れとのために女はあせり、ハンドルを思い切り右にきった。トラックは横転し、女も死んだ。
                 (モラン編『現代の神話』より「歴史の円環例」)
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 さて、上に挙げたのは、このあいだ図書館で見つけたポップカルチャー本からの抜粋で、僕がちょっと意訳したものなのでよりポップな感じになっております。たしかアメリカで出版されたものだったけど、編集はフランス人じゃなかったかと思う。正確なことは覚えていない。簡単にいうと、ハローバイバイ関とかいう人の外国ヴァージョンみたいなもので、この『現代の神話』は一般から投稿された都市伝説などと、それにたいする評論や研究を編纂した上下巻のオカルト本であった。
 Jホラー映画作品をどれだけ観たか数えてないのでわからないけれど、たとえば「リング」「着信アリ」「テケテケ」など(へんなチョイスだ)、タイムリミットまでに呪いの根源を探し出すというのがある。さらに、このうちの二作品「リング」と「テケテケ」にはほかにも共通しているところがあって、それは、それぞれに「見てはいけない」というタブーが存在することだ。「リング」では、呪いのビデオを見てはいけない。「テケテケ」では、カシマレイコを見ると数日後に死ぬ(たしかそうだった)。これについてはWikipediaでも《見るなのタブー》という項目で出ているので、そちらを参照していただければよいのですが、僕がここから展開して取り上げてゆきたいのは、伝承・伝説・民話などには類似するいくらかのパターンが存在するということなのです。
 それでは神話はさておき、童話の例で見てみる。「猿蟹合戦」「コルベスさま」「楡樹園」を挙げてみるとしましょう。くりそつである。しかし、江戸時代の絵巻にも記されている古い民話、19世紀に収集されたドイツの民話、初出典の不詳である中国の故事……と、たがいに影響されている感じではない。そしてこういったたぐいの類型をもつ話の不思議な例は、世界各地に存在しているのだ。
 そこで、ある人はユングによる集合的無意識の論を持ち出してこれを処理しようとする。これまた《集合的無意識(普遍的無意識)》の項を検索していただければOkなので詳しくは記しませんが、けっこう説得力があるし、おもしろいのです。また、たとえば太古から細胞にきざまれてきた一種の記憶のようなものの集積が、先天的に人類の精神に機能しているのかもしれないという説もある。とにかくなんにせよ、これらの類型については謎が多いのだ……。
 ここで、ちょっと最初の抜粋に注目していただきたい。この文章は『現代の神話』のなかの第三章「歴史の円環」からのものである。「歴史の円環」……つまり、歴史は繰り返すというやつである。これについて、たとえばボルヘスの小作品で「陰謀」など、読んでみるとおもしろい。ものすごく短いので要約することもないと思うが、必要なので簡単に要点をまとめてみると以下の通りである。
 謀反のなかに我が子とさえ思っていた寵臣のブルトゥスを見て「ブルトゥス、お前もか!」と叫んだカエサル。シェイクスピア、ケベートはこの悲劇を作品に借りた。それから1900年後、ブエノスアイレス州南部で一人のガウチョがほかのガウチョたちに襲われる。彼はそのなかに名付け子を見て「ペロ、チェー!」と叫んだ。彼は殺されたが、同じひとつの場面が反復されるために死ぬのだということは知らなかったはずである。
 と、まあこんな感じである。ただ、大事なのは上で省いたつぎの一文で、”運命というものは反復や変異や相称をよろこぶ。”ということだ。すると、あるいは類似する話というのは、記されることによって判明した、歴史の反復的なものなのかもしれない。
 『現代の神話』の編纂者モランもまた、「歴史の円環」にきてこう語る。”古代人は、朝と夜が繰り返し移り変わるのと同様に、歴史もまたあるポイントをもって周期的に円環することをしっていたのだ。そのため、はじめに起こった出来事さえ記憶されてあれば、あらゆる災厄はとるにたらぬもの(under control)となる。繰り返されることから、教訓(説教・理解)がはじまるのである。”と。それからモランはこの文句のあとに最初の抜粋についての解説をしていたのだが、その点については忘れてしまった。図書館でざっと読んだだけで、僕の手元に『現代の神話』はないのです。
 しかし、このモランの言葉はおもしろい。まあ、天変地異などを防ぐ手立てなどは少数の人間では用意できそうにもないが、たとえば僕が超自然的な「呪の○○」などに触れてしまっては、すべきことはもうかぎられているってわけです。無視して死ぬか、Jホラー映画作品の主人公たち同様に呪の根源を一週間ぐらいで探せばよいのである。いや、Jホラーではヒロインばかり助かって男どもはいずれにせよ死んでしまうから、どうあがいても無駄かもしれないぞ、うん。……いや、ははは冗談なのだ。「呪の○○」なんぞ、そんなものあればむしろ舐めとりたいぐらいだ。僕のこの日常は、反復されるにはあまりに地獄級の退屈さを誇っているのだから……。
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 そういうことを考えながら、僕は車を運転していた。六日前のことだ。僕は休日になるとよく暇をもてあましているものだから、ときどき一人であてもなくボロいナビだけ頼って短い旅にでるのだ。
 東京から南房総へ、ちょうど山道に入って15分ほどのことであった。見ると、前方の長いカーブで二台の乗用車が道を外れて荒れた茂みに突っ込んでいる。「事故だ」と思いながら徐行して寄っていくと、半壊した車のなかにはまだ人が乗っているのが見えた。まわりに人はない。つまり、いましがた事故ったばかりなのであろう……と、僕は車を下りて茂みをわけていった。で、当然のことながら運転手は両方とも死んでいたわけだ。かたや中年の男で、サラリーマンらしい。そしてもうかたほうは女子大生といったぐあいの若い女だった。
 もちろん僕はある種の運命を感ぜずにはいられなかった。警察と救急車を呼んで彼らを待つあいだ、つい最近読んだばかりの『現代の神話』についてずっと考えていた。さて、あの女と男の話はどのような意味を持って解説されていたのか? なぜ僕はその部分をよく読んでおかなかったのか?
 痩せた景色であった。車は一台も通らないし、虫や鳥の声すら聴こえてこない。僕と、すぐちかくの二台の車のなかで、それぞれ何の縁もなさそうな男女が死んでいるだけである。彼らをつなぐのは、偶然そこに通りかかったていどの軽すぎる死であり、それはちょうど、僕がそこに居合わせたのと同じくらい意味のないことであった。それで、僕はなにか途方もない感覚に陥ったのだ。枯れて落ちた紅葉のなかに沈んでいきたくなるような、なんとも破滅的でありながら、なんともすばらしく魅力的である幻想……。
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 そんなことがあって、こうしてちょっと記事にしてみようと思ったわけです。おそらく、ここに記された事柄自体には大した意味はない。ここに記された事柄と、それからとてつもなく大きく、圧倒的に僕たちの背後にありつづける歴史について考えたとき、そこに意味があるのだ。何が繰り返され、何が語られうるのか? 問題はそこだ。だから、僕たちが見るべきはここだけには記されていない、絶対に。
[3回]
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